前回、尾道の「尼さん」について記した。 尼さんが尾道の「常称寺」に百人以上いたこと、又その人々が何を収入の糧として生活していたかについては、古着の修理、又は町人の子供達に「読み書き」を教えていたことを書いた。 その古着のことについてであるが、尾道の輸出品としては大事な商品であったのである。当時北前船の輸出品として、塩、鉄製品、畳表、酒、酢、が主要品であるが、他に讃岐の砂糖、そして古着とがある。 古着の類が商品として輸出されることなど、現代人には考えにくいところであるが、北陸、北海道では木綿がないので重宝がられたようである。特に「道服」というのは、着物の中に綿を入れたいわゆる「どてら」であり、当時の防寒着として重宝がられた。
Welcome to 尾道歴史新聞
このブログは作者の個人的な体験、知識や雑感による私的ニュースサイトです。作者への連絡はinfo[at]sake-hamaoka.co.jp([at]を@にしてください)からお願いします。18
2011
尾道と尼寺
尾道には山陽一の遊女街があったが、それにも増して山陽道一の尼寺があったことはあまり知られていない。 この欄でも書いたことがあるが(尾道のもうひとつの裏の顔)、江戸幕府の隠密の指揮場所、もしくは変装する場所として使われていた時宗の常称寺がある。足利尊氏の寄進によって、1309年に建立された古寺で、国の重要文化財が五つもある。豪勢な寺院であったが、今は当時の面影はない。 この常称寺に尼寺があった。-小栗庵、慶徳庵、福泉庵、布施家之庵、珠数屋、松之寮とあった。尼寺小路の名称もあったが、今はこの名さえ消えてしまった。時宗西郷寺にも尼寺が三つあったそうである。(庵は小さな僧房のこと。寮も同様。) 明治時代にも三庵が残っていたが、大正十二年に最後の庵主(あんじゅ)さんが、他界されて、尼寺は無くなってしまったので、石倉一光住職が、「尼寺掟目」という小文を残しておられるので、そのことについて想像してみた。
18
2011
「どうしようもない私」種田山頭火と尾道
「分け入っても分け入っても青い山」で有名な山頭火と尾道について書いてみたい。 尾道は小さな街であったが、山頭火が来た頃の花町はたいへんな賑わいであって、芸者はいるわ、売春宿はあるわ、喧嘩は絶えず、肩が当たった当たらずで喧嘩、女の取り合いであばれる、といった賑わいであった。 花町の入り口にクリーニング店があり、その店先まで山頭火が酔いつぶれてのたわっていたそうである。 人通りの激しい店先で、乞食坊主が酔っ払って寝ているので迷惑この上ない。酒臭い坊主が寝ているのである。(今では当時の面影は無く、静まり返っている。) そのクリーニング店のお婆さんが、ぶつぶつ云うのでもなく、邪魔にするのでもなく、「その坊さん、腹が減っているだろうと、彼が目を覚ましたとき、食事とお茶を差し出したら、その坊さんが1句の短冊(たんざく)をくれ、3晩で3句の短冊をもらったそうで、今でも大事に保管しているそうな。」 クリーニング店のお嫁さんが云っておられた。後になって、あの有名な山頭火という俳人であると分かったときの驚きはなかったそうである。
18
2011
蟹工船と尾道と (小林多喜二)
「蟹工船」が今、ベストセラーになっている。 この小林多喜二と尾道の関わりを、私の友人T氏の承認を得て下記する。 一つ、尾道の対岸の向島に住んでいた田辺耕一郎(出身 安芸高田市 高田)と多喜二の関係である。 多喜二が特別高等警察により、1933年2月20日に拷問により殺された。その遺体を取り囲む友人達の写真の右端の隣にいるのが田辺耕一郎である。 田辺は広島の中学校を中退して上京し、出版社に勤めながら詩や小説を書き、プロセタリア作家同盟に入って「工場細胞」を新潮社の文学時代に載せた。
18
2011
<尾道にチベットのポタラ宮がある>
ポタラの名は観音菩薩の拝むところ「PoTalak」梵語 今、チベットの首都「ラザ」にポタラカ=ポタラ宮殿がある。 そこにお参りに行く日本人が多い。 観音様の浄土される山であり、日本にも熊野灘の那智山などにある。 これが尾道にあるのだ!




