3月
18
2011

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尾道と荒木村重:コメントに回答

記事「尾道と荒木村重」についてご意見ありがとうございます。

せっかくコメントくださったのに誠に恐れ入りますが、私の操作ミスにより、最近のコメントは全て削除してしまいました。

申し訳ございません。

コメントが無くなったことにつきまして、どうか、気を悪くなさらないようお願い申し上げます。

さて、くださったコメントについて、記事本文で返答致します。

荒木村重について、私の地元でも研究が盛んです。

しかし本質的な謎、「何故村重が反逆したのか」は解かれていません。

信長は村重が反逆したのが信じられなくて、何度も間違いではないのかと思っていたようです。というのも、信長の最愛の側室であった吉野の先夫の子を村重の妻にさせたこと、次いで摂津、伊丹という上国を与え、最も信頼する部下の一人として扱かっていたからです。

その村重の妻「ダシ」に子供達も生まれて、信長との縁もさらに深まりました。信長の後継者である信忠にとって村重の妻は姉であり、親しく一緒に育った仲でした。

その「ダシ」の夫村重が、義父の立場にある信長に反逆したのですから、全く信じられなかったでしょう。「信長公記 」での村重の記事に異常さがあります。

村重反逆の後処理については、記事の量的にも最大のスペースをとっており、その後処理については「ダシ」とその子供達、そして村重一族を皆殺しにしています。それどころか残虐さも際立って数百人を焼き殺しているのです。

幼い子を抱き、あるいは身籠っている女性もおり、もだえ焦がれ声も惜しまず悲しむ有様は、目を覆う惨状です。「猛き武士もさすが皆涙を流さぬ者はなし」とあります。これを見た人は「三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」と書かれています。

信長は荒木村重の妻の処刑を行いしときの歌、「木末よりあたにちりにし桜花、さかりもなくてあうしこそふれ」と読んでいます。

「みがくべき心の月の曇らねば、ひかりととものににしへこそ行け」と読み処刑された村重の妻「ダシ」の立ち振る舞いは誠に見事であったと記されています。

「事より下り様(おりざま)帯を締め直し、髪、高々と結び直し、小袖の襟押さえ尋常に切られ候」

「下女、端た者共は、人目をはばからず、もだえ焦がれ、泣き悲しみ哀れなり」

と記されています。

このような残酷な殺生は「上古より初めなり」とあるほどの凄まじさです。詳しくは「信長公記」を読んでください。

村重は生き延びてこののち秀吉に仕えています。その理由もまた謎です。

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Written by in: 戦国時代 |

1件のコメント »

  • takemoto より:

    利休の本をご出版された由、おめでとうございます。読んでみたいと思います。
    信長とたしの関係は何に書かれていますか?他の説もあります。

    たしの最後が美しく書かれているのでそうかもしれないですが、信長は何故たしを助けなかったのですか?
    西国寺に依頼した人はどなたですか?
    非常に興味があります。
    takemoto

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